「正坊とクロ 」
作:新美南吉
▼原文はこちら▼
https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/636_21636.html
▼作品に出てくる「夕刊鳴る水兵」を、点字朗読者の美月めぐみが調べたところ、本当にあった歌でした。
勇敢なる水兵 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=qKwIYrrIjls
これは、東京消防庁音楽隊の演奏。
一
村むらを興行して歩くサーカス団がありました。十人そこそこの軽業師と、年をと
った黒くまと馬二とうだけの小さな団です。馬は舞台に出るほかに、つぎの土地へう
つっていくとき、赤いラシャの毛布などをきて、荷車をひくやくめをもしていました。
ある村へつきました。座員たちは、みんなで手わけして、たばこ屋の板かべや、お
湯屋のかべに、赤や黄色ですった、きれいなビラをはって歩きました。村のおとなも
子どもも、つよいインキのにおいのするそのビラをとりまいて、おまつりのようによ
ろこびさわぎました。
テントばりの小屋がかかってから、三日めのお昼すぎのことでした。見物席から、
わあっという歓声といっしょに、ぱちぱちと拍手の音がひびいてきました。すると、
ダンスをおわったお千代さんが、うすももいろのスカートをひらひらさせて、舞台う
らへひきさがってきました。つぎは、くまのクロが出る番になっていました。くまつ
かいの五郎が、ようかん色になったビロードの上着をつけ、長ぐつをはいて、シュッ
シュッとむちをならしながら、おりのそばへいきました。
「さあ、クロ公、出番だ。しっかりたのむよ」
と、わらいながらとびらをあけましたが、どうしたのか、クロはいつものように立ち
あがってくるようすが見えません。おやと思って、五郎がこごんでみますと、クロは
からだじゅうあせだくになって、目をつむり、歯をくいしばって、ふといいきをつい
ているのです。
「たいへんだ、団長さん。クロがはらいたをおこしたらしいです」
2
団長もほかの座員も、ドカドカとあつまってきました。五郎は団長とふたりがかり
で、竹の皮でくるんだ、黒い丸薬をのませようとしましたが、クロはくいしばった口
からフウフウあわをふきふき、首をふりうごかして、どうしても口をひらきません。
しばらくして、ピリピリッとおなかのあたりが波をうったと思いますと、クロは四つ
んばいになって、おりの中をこまのようにくるいまわりました。それから、わらのと
こにドタリとたおれて、ふうッと大きくいきをふいて、目をショボショボさせていま
す。
見物席のほうからは、つぎの出しものをさいそくする拍手の音が、パチパチひびい
てきます。そこでとうとう、道化役の佐吉さんが、クロにかわって、舞台に出ること
にしました。そのとき、だれかが、
「正坊がいたら、薬をのむがなあ」
と、ためいきをつくようにいいました。団長は、
「そうだ。お千代、正坊をつれてこい」
と、ふといだみ声でめいじました。お千代は馬を一とうひきだして、ダンスすがたの
まま、ひらりとまたがると、白いたんぼ道を、となり村へむかってかけていきました。
3(元の二)
正坊は初日のはしごのりで、足をひねってすじをつらせ、となり村の病院にはいっ
ているのです。
正坊の病室のまどぎわには、あおぎりが葉っぱをひろげて、へやの中へ青いかげを
なげいれていました。正坊は白いねまきのまま、ベッドの上にすわってあおぎりのみ
きは、ぞうの足みたいだなあと思いながら、ガラスのむこうをながめていました。す
ると、門のほうで、ひづめの音がしました。やがてだれかが、ろうかをつたわって、
こちらへやってくるようです。ドアのむこうにお千代さんの顔を見つけだすと、正坊
はとびあがってよろこびました。
「ねえさん、ぼく、もうなおったよ。さっきもここで、とんぼがえりをうってみたの」
お千代さんは、いつも正坊を、ほんとうの弟のようにかわいがっているのでした。
「へえ、早くなおってよかったわね。あのね、正ちゃん、たいへんなのよ。クロがは
らいたをおこしちゃって、お薬をのませようとしても、のまないの。みんなこまって
いるの。だから正ちゃんをよびにきたのよ」
「クロが? ではぼく、かえる。もう、すっかりいいんだもの」
ふたりは院長さんにおゆるしをいただいて、いっしょに馬にのって、かえっていき
ました。かんごふさんは、門の外へまで出て、見おくってくれました。
4(元の3)
「クロ、ぼくだよ。クロ」
正坊は手のひらに丸薬をのせて、右手でかるく、クロの鼻のうえをなでさすりまし
た。クロはさっきよりは、いくらかおちついていましたが、でも目のいろは、まだと
ろりとうるんで、生気がありません。ふうふういきをするたびに、鼻さきのわらくず
が動きます。
正坊はふと思いついて、「ゆうかんなる水兵」の曲をウウウ、ウ、ウと、うたいだ
しました。
それは、いつも、正坊とクロが舞台に出ていくときの、たのしい曲なのです。クロ
は正坊のうた声をきいて、しばらく耳をぴくぴくさせていましたが、やがてヒョコリ
と立ちあがりました。正坊がすかさず、手のひらの丸薬を口の中へおしこむと、クロ
はぞうさなく、ペロリとのみこみました。
こんなことがあってから、正坊とクロは、まえよりもまたいっそう、はなれられな
いなかよしになり、見物人からも、団の人気者にされました。
これも、やはり、ある村で興行していたときでした。いつも正坊やクロといっしょ
に出て、喜劇をする道化役の佐吉さんが、一座からぬけて、にげ出してしまったので、
そのかわりを、ふとった団長がつとめることになりました。
「クロ、出る番だよ」
正坊はクロをおりの中から出すと、れいによって鼻のうえをなでさすりながら、ク
ロの大すきなビスケットを、口の中へいれてやりました。
5
舞台では留じいさんが「ゆうかんなる水兵」のラッパを、ならしはじめました。
ラロララ、ラララ、
ラロ、ラロ、ラ、
ラロララ、ラロラ、
ラロ、ラロラ、
ラロ、ラロ、ラロラ、
ラロ、ラロ、ラ。
正坊は、白い鳥のはねのついたぼうしをかぶり、金ピカのおもちゃのけんをこしに
つるして、将軍になりすまして、クロのせなかにのっかりました。クロはラッパの音
に歩調をあわせて、元気よく舞台へ出ていきました。
「あらわれましたのは、ソコヌケ将軍に、愛馬クロにござーい」
留じいさんが口上をのべますと、正坊はクロのせなかから、コロリところげ落ちて
みせました。見物人はどっとわらって、手をたたきました。
「将軍はただいまから、盗賊たいじに出発のところでござーい」
クロが、ああんと赤い口をあけました。将軍の正坊は、クロのせなかにまたがった
まま、ポケットからビスケットをつかみ出して、口の中へいれてやりました。クロは
正坊の手首までくわえてしまいました。正坊は目をパチクリさせて、またクロのせな
かから、落っこちてみせて、見物人をよろこばせました。
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やがて賊にふんした団長が、銀紙をはったキラキラした大太刀をひっつかんで出て
きました。正坊のソコヌケ将軍は、それを見ると、おどろいて、ブルブルふるえなが
ら、剣をほうり出して、クロの首っ玉にしがみつきました。見物の子どもたちが、ま
たどっと声をあげてわらいました。
「こらっ」
団長はつけひげをつけた、ひげだらけの顔に、するどくとがった目をむいて、身が
まえをしました。クロはちらっと、団長のそのおそろしい顔を見ました。それは団長
が、いつも正坊をおこりつけるときの顔でした。そこでクロはてっきり、団長がいつ
ものように、ほんとにおこって、正坊を竹の刀でなぐりつけるのだと思いました。
「こらっ」
団長はまた、刀をふりかぶりました。と、クロは、ウオウッとひと声ほえるといっ
しょに、正坊のからだをかるがるとくわえて、あっといううちに、見物人の中をかけ
ぬけて、テントの外へとび出してしまいました。これには見物人も団長も、留じいさ
んもあっけにとられてしまいました。正坊もびっくりしてしまいました。
やがて、テントの外の原っぱにおろされると、正坊は、クロの頭やせなかをやさし
くなでまわして、なだめすかしました。そしてやっと、舞台へつれてかえると、まず
見物席にむかっておわびをいい、賊のすがたの団長にあやまりました。見物人はかえ
って、やんやとはしゃぎさわいでよろこびました。団長は舞台のうしろで、にがわら
いをしていました。
7(元の4)
小さなサーカスは、村むらをねっしんにうってまわりましたが、みいりはほんの、
みんなが、かつかつたべていけるだけの、わずかなものでした。
そのうちに、一とうの馬が病気で死んでしまいました。「おしいことをしたなあ」
と、団長をはじめ、留じいさんもお千代さんも、正坊も五郎も、馬の死がいをとりま
いてなげきました。
それからひと月もたったある朝、目をさましてみると、団長とお千代さんと、正坊
の三人きりをのこして、ほかの軽業師は、みんな小屋をにげ出していました。これで
はいよいよ、興行することができなくなりました。団長もしかたなく、わかれわかれ
になることに話をきめました。
クロはおりにいれられたまま、車にゆられて、町の動物園に売られていきました。
正坊とお千代さんは、のこった一とうの馬と、テントやテーブルやいすなぞを売り
はらって、できたお金をもらいました。
「団長さんはなんにもなくなって、どうするの」
と、正坊がたずねますと、団長はさびしそうにわらって、
「なんにもなくって家を出たんだから、なんにもなくって家へかえるんだよ」
と、いいました。団長は、町の警察にたのんで、正坊とお千代さんを、メリヤス工場
へすみこませてもらいました。
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クロは町の動物園にかわれるようになってからは、まい日、力のない目で、青い空
のほうばかりを見あげていました。正坊やお千代さんはどうしているんだろうなあ、
もういちどあって、あの「ゆうかんなる水兵」の曲がききたいなあと、そんなことを
思いつづけてでもいるようなかっこうでした。
おりの前には、まい日、いろんなきものをきたいろんな子どもたちが、立ちふさが
りました。クロは、正坊やお千代さんが、もしかきているかもしれないと思って見ま
わしました。それは正坊だったら、赤と白のダンダラ服をきているから、すぐわかる
と思ったからでした。ゆめのように、ぼんやりそんなことを思いつづけているとき、
すぐ鼻のさきで「クロ」とよぶ、ききなれた声がひびきました。クロはものうい目を
あげて、声のするほうをのぞきました。
ウウウウ、ウウウ、
ウウウウウ、
ウウウウ、ウウウ、
ウウウウウ、
と、正坊は「ゆうかんなる水兵」の曲をうなりだしました。クロはきゅうにからだじ
ゅうに、血がめぐりだしてきたように、いさましく立ちあがって、サーカスでしてい
たときのように、歩調をとっておりの中を歩きまわりました。それから、かなぼうの
間から口を出して、なつかしそうに、正坊のほうをあおぎ見ました。ダンダラの服は
きていませんでしたが、正坊にちがいないことがわかると、クロはウォーンウォーン
と、のどをしぼるような、うれしなきのさけびをあげました。
正坊はにこにこしながら、ふくろからビスケットをつかみ出して、クロの口の中へ
いれてやり、なんどもなんども鼻のうえをなでてやりました。
正坊のうしろでは、お千代が、なみだぐんだ目をして見ていました。ふたりは、は
じめての定休日に、クロを見にきたのでした。
※リレー朗読で使用したため、便宜上、パート分けしています