参加型SNS『目覚めのリレー朗読』&『朗読原稿』

小さい太郎の悲しみ

「小さい太郎の悲しみ」

作:新美南吉   

▼原文はこちら▼ 
https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/56254_64134.html

 1
 お花畑から、大きな虫がいっぴき、ぶうんと空にのぼりはじめました。
 からだが重いのか、ゆっくりのぼりはじめました。
 地面から一メートルぐらいのぼると、横にとびはじめました。
 やはり、からだが重いので、ゆっくりいきます。うまやの角の方へのろのろとゆき
ます。
 みていた小さい太郎は、縁側からとびおりました。そしてはだしのまま、篩をもっ
て追っかけてゆきました。
 うまやの角をすぎて、お花畑から、麦畑へあがる、草の土堤の上で、虫をふせまし
た。
 とってみるとかぶと虫でした。
「ああ、かぶと虫だ。かぶと虫をとった」
と小さい太郎はいいました。けれどだれもなんともこたえませんでした。小さい太郎
は兄弟がなくてひとりぼっちだったからです。ひとりぼっちということはこんなとき
たいへんつまらないと思います。

  2
 小さい太郎は縁側にもどってきました。そしておばあさんに、
「おばあさん、かぶと虫をとった」
とみせました。
 縁側にすわっていねむりしていたおばあさんは、眼をあいてかぶと虫をみると、
「なんだ、がにかや」
といって、まためをとじてしまいました。
「ちがう、かぶとむしだ」
と小さい太郎は口をとがらしていいましたが、おばあさんには、かぶと虫だろうが蟹
だろうが、かまわないらしく、ふんふん、むにゃむにゃといって、ふたたび眼をひら
こうとしませんでした。
 小さい太郎は、おばあさんの膝から糸ぎれをとって、かぶと虫のうしろの足をしば
りました。そして縁板の上を歩かせました。
 かぶと虫は牛のようによちよちと歩きました。小さい太郎が糸のはしをおさえると、
まえへ進めなくて、カリカリと縁板をかきました。
 しばらくそんなことをしていましたが、小さい太郎はつまらなくなってきました。
きっと、かぶと虫にはおもしろい遊び方があるのです。だれか、きっとそれを知って
いるのです。

  3(原文では二)
 そこで小さい太郎は、大頭に麦わら帽子をかむり、かぶと虫を糸のはしにぶらさげ
て、かどぐちを出てゆきました。
 ひるはたいそうしずかで、どこかでむしろをはたく音がしているだけでした。
 小さい太郎は、いちばんはじめに、いちばん近くの、桑畑の中の金平ちゃんの家へ
ゆきました。金平ちゃんの家には七面鳥を二羽かっていて、どうかすると、庭に出し
てあることがありました。小さい太郎はそれがこわいので、庭まではいってゆかない
で、いけがきのこちらからなかをのぞきながら、
「金平ちゃん、金平ちゃん」
と小さい声でよびました。金平ちゃんにだけ聞こえればよかったからです。七面鳥に
まで聞こえなくてもよかったからです。

  4
 なかなか金平ちゃんに聞こえないので、小さい太郎はなんどもくりかえしてよばね
ばなりませんでした。
 そのうちに、とうとううちの中から、
「金平はのオ」
と返事がしてきました。金平ちゃんのお父さんのねむそうな声でした。「金平は、よ
んべから腹がいとうてのオ、ねておるだで、今日はいっしょに遊べんぜエ」
「ふウん」
と聞こえないくらいかすかに鼻の中でいって、小さい太郎はいけがきをはなれました。
 ちょっとがっかりしました。
 でも、またあしたになって、金平ちゃんのお腹がなおれば、いっしょに遊べるから
いいと思いました。

  5(原文では三)
 こんどは小さい太郎は一つ年上の恭一君の家にゆくことにしました。
 恭一君の家は小さい百姓家でしたが、まわりに、松や椿や柿や橡などいろんな木が
いっぱいありました。恭一君は木登りがじょうずでよくその木にのぼっていて、うか
うかと知らずに下を通ったりすると、椿の実を頭の上に落としてよこして、おどろか
すことがありました。また木にのぼっていないときでも恭一君はよく、もののかげや、
うしろから、わっといってびっくりさせるのでした。ですから小さい太郎は、恭一君
の家の近くにくると、もう油断ができないのです。上下左右、うしろにまで気をつけ
ながら、そろりそろりとすすんでゆきます。

  6
 ところがきょうは、どの木にも恭一君はのぼっていません。どこからも、わっとい
ってあらわれてきません。
「恭一はな」と、鶏に餌をやりに出てきたおばさんが、きかしてくれました。「ちょ
っとわけがあってな、三河の親類へ昨日、あずけただがな」
「ふウん」
と小さい太郎は聞こえるか聞こえないくらいに鼻の中でいいました。なんということ
でしょう! なかのよかった恭一君が、海の向こうの三河のある村にもらわれていっ
てしまったというのです。
「そいで、もう、もどってきやしん?」
と、せきこんで小さい太郎はききました。
「そや、また、いつかくるだらあずに」
「いつ?」
「盆や正月にゃくるだらあずにな」
「ほんとだね、おばさん、盆と正月にゃもどってくるね」
 小さい太郎はのぞみを失いませんでした。盆にはまた恭一君と遊べるのです。正月
にも。

  七(原文では四)
 かぶと虫を持った小さい太郎は、こんどは細い坂道をのぼって大きい通りの方へ出
てゆきました。
 車大工さんの家は大きい通りにそってありました。そこの家の安雄さんは、もう青
年学校にいっているような大きい人です。けれどいつも小さい太郎たちのよい友だち
でした。陣とりをするときでも、かくれんぼをするときでもいっしょに遊ぶのです。
安雄さんは小さい友だちからとくべつにそんけいされていました。それは、どんな木
の葉、草の葉でも、安雄さんの手でくるくるとまかれ、安雄さんのくちびるにあてる
と、ぴいと鳴ることができたからです。また安雄さんはどんなつまらないものでも、
ちょっと細工をして、おもしろいおもちゃにすることができたからです。
 車大工さんの家に近づくにつれて、小さい太郎の胸は、わくわくしてきました。安
雄さんがかぶと虫で、どんなおもしろいことを考え出してくれるか、と思ったからで
す。
 ちょうど、小さい太郎のあごのところまである格子に、くびだけのせて、仕事場の
中をのぞくと、安雄さんはおりました。おじさんとふたりで、仕事場のすみの砥石で
かんなの刄を[#「刄を」は底本では「匁を」]といでいました。よくみるときょう
は、ちゃんと仕事着をきて、黒い前だれをかけています。
「そういうふうに力を入れるんじゃねえといったら、わからん奴だな」
とおじさんがぶつくさいいました。安雄さんは刄の[#「刄の」は底本では「匁の」]
とぎ方をおじさんに教わっているらしいのです。顔をまっかにして一生けんめいにや
っています。それで、小さい太郎の方をいつまで待ってもみてくれません。

  8
 とうとう小さい太郎はしびれをきらして、
「安さん、安さん」
と小さい声でよびました。安雄さんにだけ聞こえればよかったのです。
 しかし、こんなせまいところではそういうわけにはいきません。おじさんがききと
がめました。おじさんは、いつもは子どもにむだ口なんかきいてくれるいい人ですが、
きょうは、何かほかのことで腹を立てていたとみえて、太い眉根をぴくぴくと動かし
ながら、
「うちの安雄はな、もう今日から、一人前のおとなになったでな、子どもとは遊ばん
でな、子どもは子どもと遊ぶがええぞや」
と、つっぱなすようにいいました。
 すると安雄さんが小さい太郎の方をみて、しかたないように、かすかに笑いました。
そしてまたすぐ、じぶんの手先に熱心な眼をむけました。
 虫が枝から落ちるように、力なく小さい太郎は格子からはなれました。
 そしてぶらぶらと歩いてゆきました。

  9(原文では五)
 小さい太郎の胸にふかい悲しみがわきあがりました。
 安雄さんはもう小さい太郎のそばに帰ってはこないのです。もういっしょに遊ぶこ
とはないのです。お腹がいたいなら明日になればなおるでしょう。三河にもらわれて
いったって、いつかまた帰ってくることもあるでしょう。しかしおとなの世界にはい
った人がもう子どもの世界に帰ってくることはないのです。
 安雄さんは遠くにいきはしません。同じ村の、じき近くにいます。しかし、きょう
から、安雄さんと小さい太郎はべつの世界にいるのです。いっしょに遊ぶことはない
のです。
 もう、ここにはなんにものぞみがのこされていませんでした。小さい太郎の胸には
悲しみが空のようにひろくふかくうつろにひろがりました。
 ある悲しみはなくことができます。ないて消すことができます。
 しかしある悲しみはなくことができません。ないたって、どうしたって消すことは
できないのです。いま、小さい太郎の胸にひろがった悲しみはなくことのできない悲
しみでした。
 そこで小さい太郎は、西の山の上に一つきり、ぽかんとある、ふちの赤い雲を、ま
ぶしいものをみるように、眉をすこししかめながら長いあいだみているだけでした。
かぶと虫がいつか指からすりぬけて、にげてしまったのにも気づかないで――

※リレー朗読で使った原稿のため、便宜上、パート分けしています

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